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吉本興業史「はじめに」

竹中功

著者:竹中 功

1959年大阪市生まれ 1981年吉本興業株式会社入社後、宣伝広報室を設立、『マンスリーよしもと』初代編集長、よしもとNSCの開校に携わる。よしもとクリエイティブ・エージェンシー専務取締役、よしもとアドミニストレーション代表取締役などを経て2015年7月退社。
現在は作家として謝罪関連から、広報、コミュニケーションの専門家としての出版多数。また講演会やセミナーを通してビジネス人材の育成や危機管理、広報、メディアリレーションなどに関するコンサルタント活動を行う。
https://www.mdnboys.com/profile

本サイトは竹中 功氏による著書「吉本興業史」の内容を、著者及び株式会社KADOKAWAより許諾を得て一部掲載しています。お買い求めは上記リンクが便利です。
※ 図版・テキストのレイアウト・表現など、本書と本サイトの内容は一部異なる場合があります。

吉本興業と山口組との関係

 「ええか、今日のいまこの時をもって、ヤクザとはいっさい関わってはならん! メシや酒の席はもちろんのこと、電話でしゃべっても目を合わせてもいかん。考えられるあらゆる局面でヤクザと接してはいかん!」

 これは、吉本興業の(かじ)をとっていた林正之助元(はやししょうのすけ)会長が、所属芸人を集めて放った言葉だ。

 (さかのぼ)れば、1964年(昭和39年)から警察庁は、暴力団壊滅を目指す「第一次頂上作戦」を開始していた。暴力団の資金源を断つため、ヤクザと興行を切り離すための強行策に打って出たのだ。頂上作戦は第二次、第三次と続き、常に最大の標的にされていたのが山口組だった。山口組のトップである田岡一雄(たおかかずお)三代目組長は、1912年(昭和56年)に病没した。冒頭の宣言があったのは、その直前のことだった。

 吉本興業の歴史を誰よりよく知る芸人、中田(なかた)カウスが証言者だ。複数の取材の中でも話していることであり、私も直接聞いている。

 興行の歴史を振り返れば、中世からヤクザ(テキ屋や暴力団)とのつながりがあったことが確かめられる。両者の関係性が最も密になっていた昭和30年代には、山口組が興した「神戸芸能社」が美空(みそら)ひばりや村田英雄(むらたひでお)ら大物スターの興行権を握っていた。1912年(明治45年)創業の興行会社である吉本興業が、ヤクザとのつながりをいっさい持たずに興行してきたとは考えにくかった。

 吉本興業は、吉本泰三(よしもとたいぞう)と「せい」(旧姓・林)の夫婦によって興された会社である。冒頭の言葉を発した林正之助は、せいの弟だ。18歳で吉本興業に入り、創業夫婦亡きあとの吉本興業を長く仕切った人物である。「ライオン」という異名もとっていたように、怪物的な側面を持つ〝ビッグボス〟だった。私も正之助会長が亡くなるまでの十年間程だが、直接仕えた。

 そんな人物が、いまから40年前にヤクザとの絶縁を宣言していたのだ。

 ビッグボスの言葉が厳しく守られていたなら、吉本興業は裏社会に関わる事件やスキャンダルとは無縁でいられたことになる。

 もちろん、現実的には簡単なことではなかった。

 なにせ突然の宣言をした正之助会長自身、田岡組長の葬儀に参列したところを写真に撮られて週刊誌や新聞に載せられていたのだ。当時、広報マンであった私はその切り抜き記事をスクラップブックに収めていた。自分で言っておきながら舌の根も乾かぬうちに……と思われてもおかしくない行為だった。矛盾を承知のうえで葬儀に出席することを選んだのだろう。両者の関係がいかに切り離しがたいものだったかが、それだけでもわかる。

 中田カウスがこの話をするときには、決まって次のようなオチがつく。

「会長には、新聞を見せて、これは会長やないんですか、と聞いてみたんです。すると会長は表情も変えずにおっしゃりました。〝カウスくん、キミはボクに双子の兄弟がおるのを知らんかったんか? これはボクやなくて弟のほうや。しゃあない奴やな。きつく言っとくわ〟と」

 吉本興業と山口組との関係がいつ始まったかといえば、せいが山口組二代目、山口登組長のもとを訪ねた1934年(昭和9年)だとみられる。そしてこの協力関係は、正之助会長にも引き継がれていった。1968年(昭和43年)作成、兵庫県警の内部資料である『広域暴力団山口組壊滅史』には、「山口組準構成員 吉本興業前社長 林正之助」とも書かれていたのだ。

 両者の関わりは深く、関係がなかったことにできるものではなかったのが事実だ。冒頭から書くべきことではないかもしれないが、まずこの現実を頭に入れておいてほしい。

吉本興業の「闇営業問題」

 2019年(令和元年)にメディアを騒がせた「闇営業問題」は、記憶に新しいはずだ。

 それ以前の2011年(平成23年)には、暴力団関係者との交際があったと発覚したことから、島田紳助(しまだしんすけ)が引退する騒動もあった。

 吉本興業現会長の大﨑洋(おおさきひろし)氏は、紳助より少しあとに入社して、紳助と長く一緒に仕事をしてきた人物だ。紳助引退という結末は望むべきものではなく、相当の悔しさが残っていたにちがいない。

 それだけに、いまなお反社会的勢力とみなされる組織からカネを受け取り、歌ったり踊ったりしている芸人がいたのを知ったときのショックは、大きかったはずだ。怒りが湧くというよりも、啞然(あぜん)として、悲しくつらくさえ感じたのではないかと想像される。

 芸人たちが暴力団に近づかない意識を持っていても、反社、半グレなどと呼ばれるグレーゾーンとの接触を完全に避けることは難しい。世間の注目を集めた宮迫博之(みやさこひろゆき)田村亮(たむらりょう)の会見(2019年7月20日)における言葉を鵜吞(うの)みにするわけではなくても、〝知らずに接してしまうケース〟はどうしても出てくるものだからだ。だが、そうはいっても「なぜ、軽率に……」という気持ちは捨てきれない。

 吉本興業の歴史は、日本における芸人の歩みそのものである。笑いだけではなく涙のうえに成り立つ出来事や事件も多かった。

 歴史には教訓がある。

 そこから何も学ばなかったのか……という話になってくる。

 私は、「ザ・ぼんち」の二人が歌唱した『恋のぼんちシート』がせ十万枚という驚異的セールスを記録した1981年(昭和56年)4月に吉本興業に入社した。以来、およそ35年にわたって吉本興業の広報などを担当してきた。

 入社してすぐのこと、宣伝広報室が設立され、そこに配属され、『マンスリーよしもと』の初代編集長を務めることにもなった。

 吉本総合芸能学院、「よしもとNSC」の設立も担当している。

 中邨秀雄(なかむらひでお)取締役(当時)から「竹中(たけなか)、商品(芸人)が足りへんから学校つくれや!」と言われたのだ。入社まもない社員にいきなりこれだけのことを言いつけてしまうのが、吉本興業という会社だ。上司の冨井善則(とみいよしのり)らと三人でやることになった。

 その後も、心斎橋筋(しんさいばしすじ)2丁目劇場のオープンや各種コンテンツの制作、営業・管理部門の業務まで、あらゆることをやってきた。関連会社の専務や社長を務めた時期もある。自分で口にするのは(はばか)られるものの、いつしか「伝説の広報マン」とも呼ばれるようになっていたようだ。さまざまな会見を仕切っていた経験から、退社後は「謝罪マスター」という異名もいただいた。

 在籍中は「年史編纂(へんさん)室」代表も任された。しかし、その成果が世に出る前の2015年(平成27年)に会社を辞めた。

「百年史」は2012年(平成24年)の刊行を目指しながらもかなわず、私の退社後に『吉本興業百五年史』(吉本興業発行、2017年)として刊行されたのだ。「中途半端に五年飛び出してるのもええやろ」というのが、いかにも吉本らしい。

 吉本興業が嫌になったから辞めたわけではない。35年間、広報マンとして吉本興業のためにやれることはやってきたつもりなので、今度は自分のために時間を使って生きていきたくなったのだ。会社にいたあいだの私は、直属上司や歴代社長に忠実だっただけではなく、吉本興業という会社や歴史に忠実でいたつもりだ。社史編纂に関わったことによって、その気持ちはさらに強くなっていた。歴史からだけではなく、先輩たちからも多くを学んだ。

 「芸人は商品だ。だから大切に扱うんや。よく磨いて高く売れるようにしてやりや」

 入社当時から、担当役員にそう教えられてきた。

 吉本の人間が口にする「商品」とは、消耗品ということでは決してない。「大切に扱え」との言葉からもわかるように、芸人あっての会社だという考えが根底にある。

 芸人との「専属契約」は、百年前から結んでいた。およそ〝おおざっぱ〟な契約だったのも確かだ。基本は「口約束」であり、契約書という紙はほぼ存在しなかった。闇営業問題から始まった会見騒動でも「おかしいのではないか」と指摘された部分でもある。

 だがこの関係は、会社と芸人のあいだに人間同士のつながりがあってこそ成り立ってきたものだ。その「口約束」こそ、強い「(ちぎ)り」と言えるのだ。

 私が知る限り、戦後、会社側から契約を解除した芸人は、片手で足りるほどしかいない。どうしようもない事態にいたらない限り、会社側から芸人に「お前はいらない」、「会社を辞めろ」と通告することはなかったのである。

 会社の幹部らが芸人を「家族」と呼ぶのも、口先だけのことではない。商品であると同時に家族であるという感覚は、百年の歴史の中で培われ、染みついてきている。

 その一方、芸人の側では「家族」という意識が薄くなってきていたのだと見ざるを得ない。今回の一連の騒動を通して、それが露呈した。

 いまの芸人たちの中には、明治から始まった家父長制的な体質の「家」を理解しなくなった者も出てきているのではないだろうか。時代の流れからいえば、自然なことではある。

 だが、時代や風潮の問題として、簡単に認めてしまいたくはない部分である。

「私家版」吉本興業史

 闇営業問題が最初に取り上げられてから一年近くが経ち、関連するニュースがメディアに取り上げられることは減ってきた。このまま何もなかったようになるのだとすれば、それはそれでかまわない。ただやはり、あの騒動が吉本興業を変えることがあるのかはどうしても気になる。そして、そこに加えて新型コロナウイルス騒動も起こった。吉本興業の動きはいつも注目されている。

 ここ一年や二年のあいだに起きたことに集約される話ではない。
 百年を超える歴史の中で、吉本興業にはどんなことが起きてきたのか?
 その果てに、いまの吉本興業はどのようになっていて、これからどこへ向かおうとしているのか?

 こうしたことを考え、問いかけてみたいという気持ちから、退社五年が経ちあらためて吉本興業史を振り返ってみることにした。

 「私家版」吉本興業史である。

 私にとって、吉本興業、とくに吉本新喜劇は子どもの頃からの〝教科書〟だった。生き方もギャグも吉本が教えてくれた。そのうえで35年間、吉本という会社の中にいて、自分にやれる限りのことをやってきた。

 吉本で育ち、吉本で生きた人間だからこそ、吉本興業の歴史をもう一度、見直してみたくなったのだ。

 吉本はこれからどこへ行くのか————。
 私自身がそれを知りたい。

 そしてまた、「笑い」を愛するすべての人に考えてもらいたいことである。

※今回の本では、現役の芸人やタレントのほか、引退している芸人やタレント、吉本興業に関わる人物、故人も一部で敬称を略させていただきました。

試し読みページ一覧

はじめに
日本中を騒がせた二つの記者会見
・宮迫博之と田村亮の闇営業謝罪会見
・吉本の内部事情をさらけだすよな2時間半
「ビッグボス」がいなくなった日
・「お家騒動」に巻き込まれた中田カウス
・林正之助会長の逝去
「創業家当主」が起こした、お家騒動
・林マサ氏によるお家騒動
・中田カウスとマサ氏の関係
・キナ臭かった当時の吉本
「血だらけ」になっていた中田カウス
・未だ犯人の判明しない中田カウス襲撃事件
・襲撃を受けた中田カウスのその後
TOBにより林家、暴力団関係者と決別
・吉本興業の改革/創業家の排除
島田紳助の後輩への想い
・一世を風靡した島田紳助/島田紳助の引退
大﨑洋の「紳ちゃん……、ごめんな」
・波紋を呼んだ大崎の発言/大﨑の心中
「吉本興業vs講談社」という図式
闇営業騒動の余波
・カラテカ入江の契約解除
・加藤浩次と田村淳の独立
デビュー前のダウンタウン物語
NSC一期生という「ファミリー」
和会系暴力団組長の誕生パーティ出席事件

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