• TOP>
  • 急遽はじまった、「世界一」への挑戦

急遽はじまった、「世界一」への挑戦

三井康浩

著者:三井 康浩

1979年(株)読売巨人軍入団 1984年ドクターストップにより現役引退 1986年巨人軍二軍マネージャー 1987年スコアラー(一軍) 2011年査定室長 次長 2013年統括ディレクター 2017年編成本部参与 2018年12月末尾巨人軍退団 現在は講演会、講座、野球教室などを行っている

btn_tw btn_fb

本サイトは三井康浩氏による著書「ザ・スコアラー」の内容を、著者及び株式会社KADOKAWAより許諾を得て一部掲載しています。お買い求めは上記リンクが便利です。
※ 図版・テキストのレイアウト・表現など、本書と本サイトの内容は一部異なる場合があります。

スコアラーと〝運〟

 緻密(ちみつ)な偵察を重ね、ものごとを論理的に考え、理詰めで対戦相手の攻略法を考えていくスコアラー。これは、その職を務めてきた者としてあるまじき姿勢かもしれませんが、わたしは〝運〟の存在を強く意識しながら戦っていました。

 1986年から2007年まで、巨人軍というチームでスコアラーを22年間務めてたどり着いたのは、「スコアラーにできるのは、敗れる確率を下げることだ」という結論でした。最後に勝利を摑つかみとれるかは、わたしたちスコアラーは関与することができない、なにかもっと〝大きな力〟に左右されていると思えたのです。

 その力こそ、グラウンドで勝利を摑みとろうと戦う人々が持っている運ではないか。(おう)貞治(さだはる)さん、藤田元司(ふじたもとし)さん、長嶋茂雄(ながしましげお)さん、原辰徳(はらたつのり)さん、堀内恒夫(ほりうちつねお)さんという、わたしが仕えた5人の監督、そしてコーチ陣、また膨大な数の選手たち。それぞれが持つ運の強さは異なっていました。怖くなるほどの強運を見せつけ、チームを勝利に導く人もいました。

 ただ、そんな強運が長く続くことはありません。最終的には、「プラスマイナスゼロ」に近づいていくという実感もあったのです。長く同じチームで仕事をしてきたわたしだからとれた、統計かもしれません。

 チーフスコアラーの仕事を離れ、2008年よりフロントの一員として「査定室」という部署で働きはじめたわたしは、少しだけ生まれた時間的な余裕のなかでこんなことを考えはじめました。

「ところで、自分自身の運はまだ残っているのだろうか?」

 目の前の「チームの勝利」だけを考えていた日々が終わり、少し引いた目線で自分を見つめ直すようになっていたのです。ほどなくして、それが試される大きな機会が舞い込みます。それは、翌2009年3月に開催が迫っていた第2回ワールド・ベースボール・クラシック(以下、WBC)日本代表チームのチーフスコアラーという仕事でした。

最後に残された大仕事

 2006年のWBC第1回大会では、投手では松坂大輔(まつざかだいすけ)上原浩治(うえはらこうじ)、野手ではイチローや松中信彦(まつなかのぶひこ)里崎智也(さとざきともや)といった選手たちが活躍し、王貞治監督率いる日本代表が世界一に輝きました。「その感動を再び」と、国内の野球ファンの連覇への期待が極めて高まったこともあり、第2回大会の監督選考は混迷を極めました。わたしも巨人でのフロント職1年目の日々を過ごしながら、「いったい誰が監督を務めるのだろう?」と関心を寄せていました。

 そして、2008年10月、その年セ・リーグ制覇を成し遂げた巨人の原辰徳監督の日本代表監督への就任が発表されます。原監督とは、選手として10シーズン、コーチとして3シーズン、そして監督として4シーズンと長く一緒に仕事をしてきた間柄です。そんな身近な人が栄誉ある代表監督に選ばれたことは大変誇らしく、また、原監督を支えることになると思われた巨人の後輩スコアラーたちが大舞台で活躍するチャンスを得たということもうれしかった。わたしは現場を離れていましたが、大会を心待ちにするようになっていました。

 ところが、事態は急変します。事のはじまりは、同年12月に実施された巨人軍のハワイ優勝旅行でした。球団の一員として参加していたわたしを見つけた原監督が、驚いた表情でこういったのです。

「おお三井(みつい)! ハワイにきて大丈夫なのか? 人工透析をしなければいけないから、海外にはいけないって聞いたぞ」

 わたしは腎臓(じんぞう)が悪く、ドクターストップで現役を退いて以来、長く腎臓疾患と付き合い続けていました。腎臓移植なども経験し、2008年からは週3日の人工透析を必要とする身体となっていました。ただ、海外の病院でも人工透析は受けられますから、日本から出られないわけではありません。原監督にそう伝えると、「なんだ、そうなのか」といって足早に去っていきました。

 そして東京に戻ってきたわたしに、当時の球団副代表である原沢敦(はらさわあつし)さんから連絡が入ります。「WBCのチーフスコアラーの話がきているのだけど、三井やれるか?」というではありませんか。

 これは後日聞いた話ですが、原監督は代表監督就任が決まったときにいちどわたしをスコアラーとして呼べないかと提案してくれたそうです。しかし、WBCは勝ち進むと戦いの場をアメリカに移すこともあり、球団のほうでわたしの体調を気遣って「三井は人工透析が必要だから現実的ではない」という返事をしていたのです。ところがハワイにきて、優勝旅行をのんきに楽しんでいるわたしを見た原監督が、再度、掛け合ってくれたのでした。

 原沢球団副代表からの問いに、わたしは即答します。

「日の丸を背負ってやれるのであれば死んでも構いません。やります」

 すでに終わったと思っていたわたしのスコアラー人生――。最後の最後に大仕事が残されていました。

試し読みページ一覧

コメント

アクセスランキング

編集メンバー参加申請

こちらの申請フォームより、Wikiの管理人へ参加申請をしてください。

管理人が申請を承認すると、編集メンバーに参加できます。

編集メンバーの詳細はこちらから。

あなたのアカウント ゲスト
サイト名 ザ・スコアラー - 三井康浩
メッセージ ※メッセージは100文字以内で入力してください。
編集メンバー参加申請

編集に参加するにはログインが必要です。

ザ・スコアラー - 三井康浩へようこそ!

{{isNeedLogin ? 'この機能のご利用には、Twitterでログインをお願いします。' : 'ログインはTwitterのアカウント連携で行います。'}}
※勝手にツイートすることはありません。